仮面ライダージオウ最終話 感想・考察 [ジオウは何と戦い、何に勝ったのか]
どうもせんりです(https://twitter.com/zanzan04)
仮面ライダージオウが最終回を迎えたということで。いやー、平成って終わったんだなーって(ほんとはとっくに終わってる)
この最終回を見ての率直な感想は「む、難しいぞこれ……」でした(笑)
今はめっちゃ最高だったと思ってますが。
タイトルにもしましたが、ジオウって全体的に「何と戦ってるのか」「何がどうなれば終わる話なのか」が分かりにくいと思ってて。スウォルツを倒すのが目的になったのも最後の最後の話ですしね。
また、ジオウは20年アニバーサリー作品なので特別な役割を課せられていたと思うのですが、作中では明言されず。この点については考察が必須かなと感じた。
上記の不明点については最終回を何度か見るうちに少しずつ答えみたいなのが浮かんできたので、今回はそれを書いていきます!
- ジオウの戦いとは
結論から言うと「過去とどう向き合うか」を示す戦いだったと思う。
ジオウ本編に出てくる「敵」をざっと挙げると「スウォルツ」「ウールとオーラ」「オーマジオウ」ですが、最終的にスウォルツ以外はソウゴに受け入れられてます。この線引きを決定づけてるのが、それぞれの未来と過去へのスタンスの違いだと感じた。
まずウールとオーラですが。ソウゴはウールに「なぜ自分を受け入れる?」と問われた時、「民を傷つけたことは許さない。けど君たちなりに未来を作ろうとしていたのは分かる」と答えています。これがまさに答えのひとつかな。行動の良し悪しとはまた別の基準がソウゴの中にあることが伺い知れます。それが未来へ向かう行いであるかどうか。それが大事なのだと。
つまりウールオーラは「未来」に向かってはいた。
次にオーマジオウですが彼がまた難しく、最終回を見てる当時はここで頭をひねってました。そんなとき白倉Pの声明を見かけ、いろいろ腑に落ちた次第です。
声明の内容をざっくり言うと「オーマジオウは墓守である。過去を理想化することは現在をおとしめ未来を否定すること。だからオーマジオウはサイテーサイアクなのだ」ということ。
オーマジオウが君臨していた未来が荒廃していたのはこのことの暗喩だったように思います。彼は未来を作れる存在ではなかった。ゲイツたちも彼の気持ちが分からないし従わない。歴史改変で彼を消そうとすらする。それがオーマジオウの世界に生きる民の気持ちなら、やはりサイテーサイアクということになると思う。
けど今回、彼=ソウゴであることが決定づけられました。オーマジオウ誕生の経緯を見てみればやはりソウゴに邪悪な意図は無い。
平成ライダーの歴史、つまり「過去」への敬愛があったと思います。
つまるところ、スウォルツ意外は擁護できる要素があるっていうか。尊重すべき点が存在しているんですよね。その差かな。
そしてこれは平成ライダーの歴史への向き合い方にそのまま当てはめることができます。過去のライダー作品の美しさにばかり囚われていては新しいもの、つまり未来は作れない。けど過去の作品を冒涜することは違う。
ジオウは全ての平成ライダーの歴史を過去として背負い立った存在。だからこそ過去とどう向き合っていくのべきなのか、その決意を示したかった。ジオウの戦いとはそういったことの暗喩だったのかなと考えます。
言うなれば、平成ライダーの歴史を背負うという行為そのものと戦っていたとも言えるのかなと。
- ジオウの勝利
テレビ本編においてのそれはオーマジオウと和解することだと思う。
過去がなければ今はない。今がなければ未来もない。だから、未来を作るには今と過去が分かり合わなければならない。ジオウは歴史の先端に立つ者としてそれを成し遂げる責任があった。それを完遂させることがジオウの勝利だったのだと考えます
オーマジオウとソウゴの関係っていうのはなんとも奇妙でした。ソウゴは彼を敵視しますが、彼はソウゴを守り導いてもきた。劇場版なんかが代表例ですね。
今回ソウゴがオーマジオウになることで互いに気持ちを分かり合うことができた。で、相手に対しての認識も同じになったと思うんです。つまり自分が「今」で相手が「過去」の象徴だ、という認識。ソウゴからすれば彼は「過去」に囚われた人。オーマジオウからすればソウゴは「過去」の自分。だから相手から受け取るものが「過去」からの気づきということになる。これが構図として美しいなあって思って。
「時計の針はさ。未来にしか進まない。グルっと一周して元に戻ったように見えても、未来に進んでるんだ」
「面白かったぞ。お前に会えて。若きの……私よ」
ソウゴは「過去」に囚われた自分自身に触れ、それでもと提案を投げかける。
オーマジオウは「過去」の自分から新しい気づきと未来を得る。
これがなんとも痛快で。言わばこれは、ずっとやられっぱなしだったソウゴからのカウンターパンチ。でもそこには挑発も侮蔑もなく、優しい赦しがある。
過去と今が時計の針みたいにピッタリ重なって、50年の孤独が終わり、仲間との新しい未来が始まっていく。その行き先は「まだ分からない」
どこかヘンテコなんだけど、でもドラマチックで壮大な、過去と今の和解劇がここに完成している。そこに時をテーマにすることの意義を感じた。それを確かめられたのがたまらなく嬉しかった。
ウールとオーラについても同様だ。
ソウゴは王には「もう王にはなれんぞ」と告げられても、それでも「いける気がする」
ウールとオーラがその根拠だと思う。あの二人は見ようによっては最後ソウゴの家臣になったとも言える。たった二人かもしれないけど、でも確かにソウゴからの輪は広がっている。小さくともそれは王の歩みだ。だから僕もいける気がするのだ。
過去に囚われたものと歩み寄ること。赦しを交わし、新しい未来を作っていくこと。それがソウゴにとっての勝利の意味だ。
あのラストをもって、仮面ライダージオウは勝利を掴み取ったのだと思う。
- アポカリプス
「新しい旅が始められそうだ」
士の短いセリフですが、これがすごい面白いと感じて。始められそうって可能形じゃないですか。逆に言えばこれまで新しい旅に出れなかったってことだと思って。
思えば、ジオウのレジェンド客演は中々トリッキーでした。こういうアニバーサリー作品で盛り上がる展開といえば共闘と相場が決まってますが、ジオウはそれを避けて来た。序盤はそもそもレジェンドを変身させない展開も目立ちました。共闘はディケイドですでにやったから避けたというのが第一にあるとは思いますが、また別に理由があると思って。共闘による盛り上がりよりも優先すべきものがジオウにはあったのではと。
僕はそれはレジェンドの新しい未来を描くこと。無限の未来への始点を作ることだったと考えています。
レジェンドたちの未来はそれぞれの本編最終回の先にしか無い。いわば物語の囚人。未来への道筋が限られてしまっている。
その限られた未来こそが美しい。往年のファンはそう思うけど、でもその美しさを讃えるだけじゃ未来は作れない。たとえ本編のそれほど美しくなくなってしまったとしても、新しい未来への分岐点を作らなければならない。なぜなら、そうしなければレジェンドたちは新しい旅に出れないからだ。彼らは平成の時代を駆け抜けたけど、でも彼らの物語の結末ははるか未来へ続いていく。囚人なんかじゃない。
それを示すために、ジオウはレジェンドたちから物語という枷を外さなければならなかった。それがジオウに課せられた使命だったんじゃないかと思う。
特にブレイド編は顕著でした。バトルファイトは終わらないからこそブレイドの物語のエンディングとして美しいんじゃないか。そう思う気持ちは無くもないです。
でもバトルファイトが終わらないということは剣崎と始の未来を制限する。制限されているからこその美しさはあるんだけど、でもジオウはその制限を取っ払わなければならなかった。だからああいった展開になった。ブレイド本編の最終回から続く未来とは全く違う未来へ向かっていくことになった。ブレイドの物語にそういった可能性を与えること、それがジオウの本懐だったと思うのだ。
だが最後、結局世界はバラバラに分かれる。そのあと歴史がどうなったのかは分からない。結局のところ、ジオウ本編で描かれた物語も消えてしまったかもしれない。
ジオウがやりたかったことっていうのは、ジオウ含め平成ライダーの物語全てを「どんな未来が待っているかはまだ分からない」にすることだと思う。
平成ライダーはひとまとめになんかならない。各々勝手に未来へ巣立っていけと。
それが平成ライダーへの最後の審判、アポカリプスなんだと思う。
長々と言ってきたけど、結局のところこの最終回っていうのは超いい加減な平成ライダー卒業式だと思う。めちゃくちゃだけど、でもそれがまた平成ライダーらしい。そんな彼らの旅立ちを、僕も祝いたいと思った。
……ま、すぐ後でまたしれっと出てきそうですが(笑)
- 最後に
お付き合いいただきありがとうございました。
普段の感想記事では各キャラへの雑感とかも書いています(この時このキャラはこういう心境だったのでは!ここが熱い!みたいなやつ)
そっちもめちゃくちゃ書きたかったんですけど、今回はジオウのテーマ性の方を書きたかったので入らず。なのでそちらはまた別の記事として書いていこうと思います。今回ほど長くなく、シンプルな感じにするつもりです。
また、ゼロワンの感想も書いていこうと思います。ジオウの感想記事が途切れた反省を活かしてやっていくつもりです。具体的に言えば、文字数を減らしてスマートに行きたいなと。
では、今回はこんな感じで。
改めて、ここまでお読みいただきありがとうございました〜!!